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2018.09.10
障がい者アスリート 小池岳太が語るコミュニケーションデザイン(2)
車いすスキーヤーの夏目堅司さんを迎えて語り合う、
「目標を共有する仲間としてのコミュニケーション」とは
2016年のトリノパラリンピックから4大会連続出場し、現在、自転車競技で東京パラリンピックを目指している小池岳太選手。現役選手として活躍する原動力になっているのが、多くの人々との出会いです。
スキー事故によって車いす生活となった夏目堅司さんは、小池選手にとって、スキーの基礎を教えてくれた先輩であり、パラリンピックを目指していた同士、ライバルでもありました。
現役を引退された後、夏目さんは新しい時代の福祉機器や競技用車いすなどの開発を手がける会社の社員として、新たな一歩を踏み出しています。夏目さんとの出会い、学んだこと、励ましあったこと、そして、これから実現したいことなどを率直に語り合いました。
<聞き手:スポーツジャーナリスト 宮崎恵理氏>
2004年、リハビリテーション施設での出会い
----お二人は、夏目さんが入所されていたリハビリテーション施設で出会われたとか。
小池
当時、僕は長野県の障がい者施設で筋力トレーニングをしていたんです。そこで、「すごい人がいる!」という噂を聞いて、先輩の選手とともに夏目さんをパラアルペンスキーにスカウトに行きました。白馬八方尾根スキースクールでインストラクターをしていたというだけでもすごいことなのですけど、技術選(全日本スキー技術選手権大会)に出場していたということを聞いて、それは話をしに行かなくては!と。
夏目
当時は技術選が花盛りで、選手はいっぱいいましたね。僕もその一人で、3回出場しました。がっくん(夏目さんは小池選手のことをこう呼んでいます)が来たのはよく覚えてるよ、10月くらいでした。
小池
夏目さんのはじめの印象は、とにかくかっこいい人。それに、脊髄損傷による下半身不随という大きな障害を負った直後だったのに、物腰が落ち着いていて、すでにしっかり前を向いていることが印象的でした。それと、スキーでケガをしたのに、またスキーで新しい挑戦をする決断をしたことには驚きました。
----夏目さんは、スキー指導員の資格はいつ取得されたのですか。
夏目
高校卒業後、スキーのインストラクター養成の専門学校に進学したんです。在学中に準指導員の資格を取得して、それから八方尾根スキースクールでさらに勉強しつつ、インストラクターを始めました。指導員を取得したのが23歳です。ケガをしたのはちょうど30歳でした。
初めての海外遠征で恐怖心を共有
----チェアスキーとして、改めてスキー場に行かれたのはいつですか。
夏目
2004年の4月にケガをして、その年のシーズン初めにはスキー場に行きましたから2004年の12月ですね。改めてスキーは面白いと感じられたんです。スキーで斜面を滑るというのは、日常ではなかなか味わえない感覚ですよね。雪の上のスピード感、スリル。そういう感覚が蘇ってきたことは、続ける大きなモチベーションになりました。でも、健常時代は、どんな斜面でも滑れたけれども、チェアスキーでは最初、全然滑れなかった。
----競技に本格的に取り組もうという気持ちになったのは。
夏目
チェアスキーを始める、イコール競技という感じで周りからも期待されていましたし、自分としてもそういう気持ちでした。トリノパラリンピックの年に、国内大会の大回転で6位になれたんです。当時のヘッドコーチが正式にナショナルチームに引っ張り上げてくれて、それで翌シーズンから強化選手として合宿に参加するようになりました。
夏目:パラアルペンスキー(座位)
----パラアルペンスキーを始めた頃、印象に残っている思い出は?
夏目
2005年11月、僕はまだまだ強化指定選手ではなかったけれど、海外遠征に連れて行ってもらったんです。がっくんも当時はまだ始めたばかりだったよね。
小池
そうでした。僕はオーストリア・ピッツタールの大会に出場した時にご一緒した記憶がすごく鮮明なんです。
夏目
ああ、あのとき、僕はスキー板を折ったよね。僕にとっては、板を折るってこと自体も初めてだったなあ。何しろ斜面が急すぎて、スタートしてすぐに転倒して板が折れた。
小池
僕もピッツタールのスーパー大回転では、あまりにも急斜面で恐怖心がすごくて、気合いを入れる為にスタート前に日体大の「エッサッサ」という伝統的な踊りみたいなものを一人でやっていて海外のコーチから笑われていました(笑)。
2010-2011シーズンの国際大会で(ピッツタール)
立位と座位。カテゴリーは違っても仲間
----その後パラリンピック出場に至るわけですが、上達に伴ってもともと持っていたスキー技術が活きてくる場面もあったかと思います。夏目さんから小池選手にアドバイスされたことなどはありましたか。
小池
それは、もういっぱいありました。僕は、滑っているときに腰が落ちて後傾になってしまっていたので、正しいポジションにしろ、とコーチに言われ続けていたんです。でも、どう練習したら正しいポジションになるのかがわからない。それを夏目さんにアドバイスしてもらいました。
夏目
基本的には横滑りをやってポジションを確認するのがいい、と。スキーのどこにのっていると、どうスキーが動くか、足の向きに対して、どう力を加えると横滑りができるかということをしっかりマスターすればいいというアドバイスをしました。あとは、体を倒すより足首を引きつける意識の方が、お尻が落ちないよ、とか。
小池
僕にとっては、選手でありながら身近なコーチのように頼っていることも多かったです。練習の合間に、「今、どうでしたか」といつも夏目さんに確認してもらっていました。
----日本チームの一員として、はじめにチームに入った時は、どうでしたか?
夏目
チームには、若い選手で立派なリーダー格の選手がいましたが、僕はある程度年齢が高かったということもあって、ベテラン組の選手たちからも若い選手からも抵抗感なく受け入れられているという感覚がありました。
小池
僕は、チームに入った当初から、明るい未来が待っている、という希望に燃えていましたから、積極的に飛び込んでいきました。金メダリストの大先輩もいらして、叱られることもいっぱいありましたけど、心がけとしては挨拶をしっかりすることと、ちゃんと先輩たちの話を聞く、ということでしょうか。
小池:パラアルペンスキー(立位)
日本チーム内で「年長者」として、「先輩」として
----途中からは、お二人は日本チームの中でも「年長者」になっていったと思いますが、その中でのコミュニケーションで心がけていたことなどはありましたか?
夏目
バンクーバー大会以降は、強化指定選手の人数が少なくなって、自分が年齢的には上の方になりました。ソチ大会が終わると、日本チームはコンパクトになって立位2人、チェアは5人程度になりました。その頃からチームとしてのコミュニケーションはすごく深まったのかなと思っています。
小池
夏目さんは、チームの中で、"ここぞ"という時のまとめ役の存在でした。意見を主張する選手が多い中、スキー場での経理や総務の業務経験などチーム内では最も社会経験豊富な夏目さんの一言で、最後には意見がまとまり、ミーティングが終わったことが何度もありました。決しておごらず、語気を荒げることも無く、常に冷静な夏目さんは、皆から一目置かれる存在でした。
----後輩指導で意識していたことはありますか?
小池
立位の三澤拓選手も若い時から活躍して今や「先輩」にあたる役割になりました。彼は割とストレートにものを伝えるタイプ。それが合う選手もいれば、合わない選手もいる。タイミングによって受け取り方も違います。なので、僕は逆のタイプの「先輩」として、一人一人の意見に耳を傾け、考えに寄り添いながら、ともに答えを見つけていくようなタイプでした。性格の問題も大きいですが。夏目さんも同じタイプでしたよね。
夏目
そうかもしれないね。熱く精神論を説くのではなく、伝えるべきことは冷静に、伝えていたかもしれない。
小池
現在、10代の若い選手もいますから、僕と15歳以上の差があるわけです。特に先天性の障がいの選手は、中途障がいの僕とは、親の育て方による本人の自立の度合いも随分と違いましたし、練習環境も15年前とはまるで違います。そこは、一人一人の傾向を自分なりに考えて、これからの選手にとって良いと思う、気持ちの持ち方や練習方法を伝えてきたつもりです。
----具体的にはどういったことでしょうか?
小池
海外チームで強い国は、いわゆる個人面談のような日々の成果を検証する指導の時間も力を入れていました。ただ、平昌に向かう日本チームにはそういった環境はなかったので、自分が選手でありながら自主的にコーチ的な役割も担い、若手の成長の後押しをしたいと行動してきました。一緒にノートを書いて、コーチの指導の理解を深め合ったり、動画を確認し合ったり。若手との会話の中で大切にしていたことは、選手自身の気持ちを引き出した上で、状況を整理し、一緒に考えながら目指すべき方向を定めていくといったアプローチです。
気持ちを引き出すのは、難しいこともありますが、そこは、スポーツの持つ力を最大限に活用しました。「一緒に朝練やるよ!」と声をかけて、朝、一緒にストレッチやジョギングをしたり、また、リフトに乗っているときに意見を聞き出すなど、屋外で話をすることも多くありました。やはり、体を動かしている場面だと、心も開きやすくなるし、話も受け入れやすくなるような気がします。競技に対する基本的な取組姿勢や、覚悟など、ともするとお説教のようになってしまう話は、部屋での対面ではなく、屋外のほうが伝わりやすかったと思います。
あとは、きつい練習ももちろんするけれども、最後の練習はアルプスの絶景が見えるようなところに連れて行き、ちょっとしたご褒美的な楽しむ要素を入れることもやってみました。その他、SNSの家族グループに自分も入れてもらい、日々の練習映像や成果、反省を私なりに毎日コメントし、親御さんにも共有してもらうことも大切にしていました。
----他に、意識して伝えていたことはありますか?
小池
今の選手は、様々な環境で恵まれています。練習施設やスキーの道具、周りのスタッフの皆さんの協力など。はじめから環境が揃っていると、いつしか「それが当たり前」になってしまって、感謝の心やまわりへの気配りを忘れてしまうこともあるかもしれないのですが、そこは、どれだけたくさんの人に支えられて競技ができているか、ということを忘れずにいることを、口酸っぱく伝えてきたつもりです。
平昌での選考では、ライバルにも
----お二人はパラリンピックの出場枠などではライバル関係でもあったかと思います。そういう意識はありましたか。
夏目
根本的に立位とチェアスキーでは、メダルを争う関係ではありません。でも、タイム争いはできるんです。僕ら選手には障がいの状態や程度によって細かいクラスわけがあって、レースではそのクラスによって実際のタイムにクラスごとの係数をかけた計算タイムで順位が決まります。その計算タイムで、互いに勝ったとか、負けたということがわかる。そこはいつも励みになっていましたね。今日はがっくんに勝てたぞ、とかね。
小池
練習やワールドカップなどのレースでは仲間意識が強いのですが、一方で運命共同体というか、パラリンピックの出場権を巡って男子枠ととしての国内競争はありました。平昌に関しては、夏目さんと僕のどちらか一人だけが最後の出場枠を獲得するのではないかと思っていたので、選考中は正直、会話が少なくなった時期もありましたね(笑)
----結果的に、2018年の平昌パラリンピックには二人とも出場しました。
小池
出場が決まった時は、もう、すごく嬉しかったです。平昌のシーズン、二人は選考を争う関係性でもありましたから、12月、1月ごろのワールドカップなどで夏目さんの成績が良かったレース、僕が良かったレースなどが交互にあって、その度に一喜一憂していました。常に不安はありましたね。
夏目
がっくんの出場が最後に決まった時には、泣きそうになりました。でも、僕はずっといけるはずだと信じていました。一緒に練習を積んできた強化指定チームがみんな出場できることになって、チーム力も非常に高かったと思いますね。
アルペンスキー(立位)日本代表チーム
アスリートとしての就職でもお手本に
----お二人の共通項として、アスナビ(JOCが推進するアスリート就職支援システム)を活用して就職する経験をされていますね。
夏目
2013年にジャパンライフという会社にアスナビで入社しました。JPC(日本パラリンピック委員会)のスタッフから連絡があって、初めてアスナビというシステムがあるということを知ったんです。それまでは八方尾根スキースクールのインストラクターでしたが、海外遠征などが続いて仕事ができなければ、報酬として得られるものはどうしても減ってしまう。生活するにも、遠征に出かけるにも自費を投じなくてはいけない状態でした。あの就職がなければ、ソチ以降競技を続けることはできませんでした。
小池
夏目さんは、アスナビ就職の第一号パラリンピアンですね。
----それから、カーボン製品の開発を手がけるRDS(現所属先)に転職されていますね。
夏目
当時、RDSの構想として、福祉関連事業を充実させたいという目標を聞きました。カーボン製のクラッチを製作したことがきっかけだったようですが、そこから競技用のチェアスキーや陸上競技用車いす製作を手がけるようになっていました。テスターとしてスキーヤーや車いすアスリートがいれば、開発スピードが格段に上がるということで、声をかけられたのが2015年の秋です。
当時は、まだ以前の所属先に在職していましたから、その時には具体的には話が進まなかったんです。ただ、社長の熱い思いを聴くうちに心が傾いていきました。チェアスキーを一から開発するということにも興味もありましたし。必要としてくれているなら、それにも応えたいと。以前の会社との契約が終了するタイミングで転職しました。
----現在はアスリートとしては引退されて、普通の社会人として勤務されていると伺っています。現在どのようなお仕事をされているのでしょうか?
夏目
現在はCFRP(炭素繊維強化プラスチック)の成形や加工、また車椅子開発におけるテスターといった業務を主にしています。
----今後、仕事上でチャレンジしてみたいことはありますか?
夏目
現役は引退しましたがチェアスキーには何らかの形で携わりたいし続けていくつもりでいます。またRDSはデザイン、設計、解析から成形、そして加工までを一貫して行えることを強みとしていますので、今後様々な業務を通して自分が吸収して成長し、これからのチェアスキー開発で、例えばデザインや成形など自分が関わったチェアスキーがパラリンピックに使われるように頑張っていきたいです。
他にも他競技アスリートや多くの車椅子ユーザーの役に立てるよう頑張りたいですね。
ジュニア育成に貢献したい
----今後、夏目さんはパラアルペンスキーに対してはどんな関わり方をしたいと思っているのですか。
夏目
選手としては完全に引退しましたから、次世代のために環境づくりを手伝っていきたいと思っています。今、野島(弘、パラアルペンスキーで長野からトリノまでパラリンピックに出場)さんが子どもたちのためのチェアスキー体験教室をやっています。
子供たちが、楽しむレジャースキーからパラリンピックを目指したくなった時に、いまは支えてあげられる場、環境があまり整備されていないのです。ですので、野島さんとも連携しながら、ステップアップしたスキーヤーにどう、競技の面白さや厳しさをきちんと伝えられるか。そういった場や練習できる機会の提供に役立てればと思っています。
----パラ陸上競技では、かつて活躍していた往年のパラリンピアンたちが、アスリートクラブを創設したり就職支援なども担って、若い選手たちの指導や育成に携わっている人が増えてきました。
夏目
まさに、そういうことをアルペンスキーでも実現させていきたいですよね。陸上競技など夏のスポーツは入り口として入りやすいのかなと思いますね。だからスキーだけとか、陸上だけというのではなく、最初はいろんなスポーツをやる中で、アルペンスキーの魅力にもどんどん触れてもらうチャンスを作っていけばいいのかなと思っています。
小池
桃佳(村岡、平昌パラリンピックで5つのメダルを獲得した女子のチェアスキー選手)は、まさにそのタイプですよね。もともと小学生の頃は陸上もやっていたのですから。
----冬のパラリンピックは2022北京大会がありますが、2020東京大会では小池選手が自転車競技での出場を目指しています。夏目さんとしては、自国開催のパラリンピックに対してどんな思い、期待があるのでしょう。
夏目
がっくんには是非、東京で活躍して欲しいな。がっくんは自分が決めたことを貫く芯の強さがあると思う。厳しい競技の世界に、また飛び込んでいくって、半端な精神力ではできませんよ。ストイックにできることがすごい。パラリンピックでもいい大会だったという人々の気持ち、記憶に残って欲しいと思いますね。でも、大会が終了した後に、せっかくついた火が消えないように、そういう部分をしっかり繋げていきたいと思っています。
小池
ありがとうございます! 自分を育てていただいた皆さまに恥じないように、頑張ります!
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